ネガティブ描写がカットされた『分かれ道のヘラクレス』の謎とは?
筆者はいわゆる「ギリシャ神話を題材にした美術作品」の中には、ギリシャ神話の人物が登場するが厳密には「ギリシャ神話」ではなく後世に創作された一種の二次創作的なエピソードを扱った作品随分あることを何度か指摘していますが、そうした「後世の二次創作」の中には、ストーリー自体としてはキリスト教時代に入る前のいわゆる「古代」に既に創作されていたものも幾つかあります。今回のテーマ『分かれ道のヘラクレス(『ヘラクレスの選択』とも)』も、そうした古代に創作された短い教訓的な例え話の一つです。
これはバロック初期の1596年にイタリアの画家カラッチによって、ローマの名家ファルネーゼ家の宮殿の天井画のために描かれた『分かれ道のヘラクレス』であり、このテーマの代表的な作品例ともいわれています。多くの『分かれ道のヘラクレス』のテーマはこのカラッチ作品の表現と共通点が多いので、まずカラッチ作品を例にして一般的な『分かれ道のヘラクレス』の表現について説明します。
画面の中央にギリシャ神話のスーパーヒーローのヘラクレス(この時点では成人したばかりという設定なので、一般的なヘラクレス像に比べ髭がないか薄いのが一般的です。また、彼の重要なアトリビュート(持物。神話や聖書など有名な物語の登場人物を美術作品のテーマにする際、お約束的に一緒に描かれる品物や動植物など)であるライオンの毛皮も、しばしばまだ着ていません)が立っていたり座っていたりして、二人の女性の話を聞いています。
向かって左側の女性は「美徳」の擬人化キャラ(以下「美徳さん」)で、細く険しい山道(「Web Gallery of Art」のこのカラッチ作品の解説によれば、芸術の女神姉妹ムーサの住むヘリコン山だということです)を指差しています。彼女の横に控える月桂冠を被って本を開く人物は、ヘラクレスの物語を書き残すことになる神話の書き手です。山の上にはしばしば、名声を象徴する有翼の馬ペガサスがいます。
向かって左の女性は「悪徳」の擬人化キャラ(以下「悪徳さん」)で、「美徳さん」よりセクシーで華やかな衣装(作品によっては、ヌードやセミヌードであることもあります)を着ています。彼女は花が咲き乱れる森の小道(=美しいが、先行きがわからない道)を指差しており、足元に楽器その他の娯楽用の道具を置いています。このことから、ここでの「悪徳」とはつまり言い換えれば「この世での快楽」のことであり、「悪徳さん」の持物の中に含まれることも多い演劇用仮面は、そうしたこの世の快楽があくまで一時的なというか仮のものでしかないことを象徴します。
一方こちらはカラッチ作品から約80〜90年前の16世紀の極めて初頭に、矢張りイタリアの画家ベンヴェヌートによって制作された『分かれ道のヘラクレス』です。カラッチ作品と比べると、「美徳さん」も「悪徳さん」も積極的にヘラクレスの手を取って話しかけており、まるで恋の三角関係のようです。
「美徳さん」の背後の山道にはペガサスの代わりに、ヘラクレスが退治することになる怪物「ネメアのライオン」であると同時に正義と勇気の象徴でもあるライオンがいます。一方「悪徳さん」は仮面を含めた娯楽道具を持っておらず、彼女の背後には「美しいが行き先の見えない、花咲く森の道」でなく城館が建つ見晴らしの良い丘があります。より近景の小川では複数の男女が水浴びをしていますが、性的快楽というよりは健康や理想郷を象徴しているように見えます。つまり、カラッチ作品に比べると「悪徳=この世の快楽」の描写から「ネガティブな」描写が排除されていると分析できるのです。
更に特色のある描写としては、上空でヘラクレスの父である最高神ゼウスがしっかりと子息ヘラクレスの選択を見守っている点です。この描写には、明らかにキリスト教の神とイエスの礼拝図の表現もイメージされています(なお『ヨーロッパの図像 神話・伝説とおとぎ話』では、この上空に浮かぶ人物をヘラクレスに退治されたが、最終的に自分の毒の血を使って彼を絶命させたケンタウロス(上半身が人間で下半身が馬の姿の怪物)のネッソスが悪霊になってヘラクレスを呪詛しているのだとしていますが、それはまず違うでしょう)。余談ですが、このベンヴェヌート作品のような髭のないゼウス像は、子ども時代のゼウスや(以前取り上げたベートーヴェン像やワシントン大統領像などのような)現実世界の像主をゼウスになぞらえた神話的肖像以外ではほとんどみられないので、この例は極めて特殊な作例といえます。
こうした点から考えて、ベンヴェヌート作品はカラッチ作品に比べ明らかに「ネガティブな」描写が大幅にカットされ、更には上空で見守るゼウスなど「ポジティブな」描写が付け足されていますが、それにはある理由があります。それはどんな理由でしょう?(今回は自由回答です。ヒントはこの絵の形状にあります)
・・・正解は、「結婚祝いか出産祝い(要するに祝い事)のために描かれたから」です。以下、ベンヴェヌート作品の「Web Gallery of Art」での解説全文の拙邦訳を引用します。
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画像は「誕生の盆」の表です(結婚式や出産の際にこうした(訳注:絵のある装飾用の)盆が贈られました)。盆の裏側には、婚姻関係にある両家(訳注:つまり花嫁の実家と花婿の実家)の紋章が描かれています。
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つまり、依頼主などの詳細は不明ですがとにかく当時のイタリアの要人の家の結婚祝いか出産祝いのために作られた「誕生の盆」の絵だったからこそ、ネガティブ描写がカットされポジティブ描写が追加されたわけです。また、特に出産祝い用の「誕生の盆」といえば出産という大役を果たした母親をねぎらい讃えるために、女性が知恵や美貌を駆使して男性を手玉に取る「女の力」というテーマの絵が描かれたことは以前触れましたが、ベンヴェヌート作品での自分の指す道を選ぶようヘラクレスを熱烈に口説く二人の女性の描写にこの「女の力」イメージが投影されているのは明らかです。
<参考文献>
海野弘解説・監修『ヨーロッパの図像 神話・伝説とおとぎ話』パイ インターナショナル、2013
ジェイムズ・ホール、高橋達史・高橋裕子・太田泰人・西野嘉章・沼辺信一・諸川春樹・浦上雅司・越川倫明訳、高階秀爾監修『西洋美術解読事典 絵画・彫刻における主題と象徴』河出書房新社、2021
オード・ゴエミンヌ、ダコスタ吉村花子訳、松村一男監修『世界一よくわかる! ギリシャ神話キャラクター事典』グラフィック社、2020
岡田温司『「ヴィーナスの誕生」視覚文化への招待』みすず書房、2006
岡部昌幸監修『暗号(アトリビュート)で読み解く名画』世界文化社、2021
Web Gallery of Art
ジャンル | 歴史 |
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掲載日時 | 2021/12/8 16:00 |
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