モロー作の『エウロペの誘拐』の、珍しい特徴は?
ギリシャ神話を題材にしたルネサンス期以降の様々な美術作品の中でも、『エウロペの誘拐』は多くの芸術家によって描かれた人気のあるテーマでした。
このストーリーは、簡潔にいうとテュロス(フェニキア。今のレバノン)の王女エウロペを愛した最高神ゼウスが、牛の姿に化けて彼女をクレタ島(現在ギリシャ領の島)に連れ去り、そこで彼女との間に2人あるいは3人の子息を儲けるというものです。
なお、エウロペの名はヨーロッパの語源でもあります。
実は、この題材が多く取り上げられたのには大きな理由があります。
その理由とは、キリスト教時代には「人間の魂を神の国に連れて行くキリスト教の神の例え話」として解釈されたということです。
ギリシャ神話の中でも数多く語られるゼウスの浮気エピソードには、ゼウスの愛人や愛人との間に儲けた子どもが彼の妃で神々の女王のヘラによって制裁を受けるくだりが多いのですが、エウロペと彼女の子どもたちの場合には(少なくとも後世に伝えられた神話には)そうした話がない(=エウロペと子どもたちはゼウスの愛人と子どもの中でも幸運に恵まれている)ことや、ゼウスが化けた動物が「牡牛」という、キリスト教でも神聖なイメージがある(翼を持つ牡牛は、福音書記者ルカを象徴する生き物=彼に付き従う天使とされる)生物であることも、異教の神が人間の女性である愛人を連れ去るという一見スキャンダラスなテーマをめでたくキリスト教化できた理由と考えられます。
ところで19世紀に活躍したフランスの画家ギュスターブ・モローはこの『エウロペの誘拐』をテーマとする作品を幾つか描いていますが、それ以前の時代の多くの画家の描いたこのテーマの作品と大きく異なる点があります。それは次のどれでしょう?
1,エウロペと牛に変身したゼウスが、画面の「暗い」方向へ向かって進んでいる。
2,ゼウスが最早牛に化けていない。
3,あからさまに「夜」に起こったこととして描いている。
・・・正解は1番です。なお、モローの手になる『エウロペの誘拐』の中には牛に変身したゼウスの顔だけが神の姿を留めているバージョンもあるので、2番も完全な間違いではないともいえます。
神話では牛に化けたゼウスはエウロペを乗せて海を泳いでクレタ島に渡ったとあることもあり、多くの同テーマの作品では暗い森から明るい海辺・沖に向かっていく姿が描かれ、しばしば明暗の対比が見どころになったりします。
これは人間世界と天上世界の対比を象徴した描写とされていますが、モロー作品では逆にエウロペたちは明るい海辺から暗い森の奥へ進んでいるように見える描き方です。
以前も、特に前近代においてはギリシャ神話を題材にしたキリスト教時代の美術作品では元ネタの古代神話よりも大幅に勧善懲悪を感じさせる描写が多いという指摘をしましたが、19世紀以降の近現代になると市民社会の発展その他の理由もあり、そうしたキリスト教的な勧善懲悪要素は薄れてきます。
そうした時代背景もあり、モローはこの『エウロペの誘拐』を最早キリスト教の神による人間救済の例え話ではなく、いわばダークファンタジー的イメージで描いたとも解釈できます。
『エウロペの誘拐』のダークファンタジー化といえば、田中久美子氏はここでのエウロペを「破滅へと導かれてしまう危うい存在として描かれている」と指摘していますが、その見方によればモローは前近代の作品ではまずあり得なかった、それまでのエウロペ像(とゼウス像)とは真逆のイメージの彼女(とゼウス)を描いたともいえるでしょう。
しかしモローの描く牛に化けたゼウスは聖性の象徴である後光の差した姿に描かれており、更にいうとそもそも古代神話でも、ゼウスはエウロペをヘラから守るためにクレタ島のプラタナスを一年中落葉しないようにしたというくだりもあるそうなので、「破滅」「ダークファンタジー」は若干過剰解釈のきらいがあり、伝統的なタイプの作品ではテュロスを出発するシーンが描かれているのに対してモローはただクレタ島に到着したシーンを描いただけである、という解釈も成り立ちます。
<参考文献>
オード・ゴエミンヌ、ダコスタ吉村花子訳、松村一男監修『世界一よくわかる! ギリシャ神話キャラクター事典』グラフィック社、2020
海野弘解説・監修『ヨーロッパの図像 神話・伝説とおとぎ話』パイ インターナショナル、2013
千足伸行監修『すぐわかるギリシア・ローマ神話の絵画』東京美術、2006
視覚デザイン研究所編『鑑賞のためのキリスト教美術事典』視覚デザイン研究所、2011
田中久美子監修『#名画で学ぶ主婦業 主婦は再びつぶやく』宝島社、2019
Web Gallery of Art
ジャンル | 歴史 |
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掲載日時 | 2021/5/14 16:30 |
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