森鴎外と高木兼寛が原因を争った病気は?
皆さんは脚気という病気を知っていますか?
脚気はビタミンB1の欠乏によって心不全や末梢神経障害をきたす病気です。
明治時代には特に軍隊で多くみられ、全兵士の3~4割が罹患したそうです。
そのため、当時の軍関係者は脚気の予防・治療対策について早急に取り組むべきだと考えていました。
これを受け海軍軍医であった高木兼寛はイギリスに留学しました。海外に留学し医学を学び直そうとしてのことです。
イギリスで高木は臨床医学(実際に患者に接して医療行為をする領域)を学びました。
この経験を活かして帰国後、脚気罹患率と環境要因を調査し、原因は兵士の食事にあるのではないかと考えました。
高木はタンパク質が少なく糖質が多いときに起こると主張し、これを確かめようとします。
まず、海軍病院の脚気患者10名を用い、半分を米食中心の病院食、もう半分を改善食の洋食にした対照実験を行いました。この実験で洋食を食べさせた実験群は回復傾向にありました。
この結果をうけ、高木は遠洋航海に出る戦艦・筑波を用いて改善食の試験を行いました。これと比較されたのは前年に出航した戦艦・龍驤です。龍驤は死亡者が25名でした。一方、筑波は1人の死亡者を出しませんでした。
これらの結果から高木は脚気の栄養欠陥説を提唱しました。
この説に様々な反対意見が寄せられます。その中の1人が当時陸軍軍医を務めていた森鴎外です。
森鴎外は学校の授業で聞いたこともある通り、『舞姫』などを執筆したことで作家としても知られる人物ですね。
森は理論を重視するドイツ医学を学んでいました。当時西欧で主流と考えられていた、脚気伝染病説を提唱していました。
また、森はその後「麦飯は米飯に対して消化が悪く、多くが排泄されてしまう」と高木に反論します。
それに対して高木は筑波を用いた実験とほぼ同時に行った、麦飯と米飯を用いた対照実験を例に挙げて反論しました。
森はこの反論に対し、筑波を用いた対照実験などの統計の取り方に不備があると主張しました。たしかに2つの戦艦を用いた実験は時期が異なるなど必ずしも食事以外の条件が同じとは言えません。ですが、森がいう理想的な実験は実現性に問題があります。
一方、高木は前述の10名の脚気患者を用いた実験、戦艦を用いた実験、犬を用いた実験など可能な限り対照実験を行っており、必ずしも信憑性に問題があるとは言い切れません。
森はその後も米食、麦食、洋食の熱量を計測する実験方法を用いて米食がいかに優れているか主張しますが、この実験方法は適切なものではありませんでした。
このように、陸軍では高木の説を認めようとせず、米食を続けます。
その結果、高木が脚気の栄養原因説を発表したのが1883年であるのに対し、1894年からの日清戦争、1904年からの日露戦争で約29万の脚気罹患者、約3万の死者を出してしまいます。
鈴木梅太郎がビタミンの存在を発表したのが1911年であるため、脚気に対しての原因の理解は当時の日本では難しいと思います。しかし、高木が発表した説とその結果を頑なに認めようとせず死者を出したのも事実です。
文豪として有名な森鴎外が医師としてどのような活動をしたかわかりましたでしょうか?
高木兼寛の墓は東京都の青山霊園に存在します。実際に昨年(2020年)11月に行ったところ、高木の業績が書かれた碑が置かれていました。
高木が創立者の1人となった東京慈恵会医科大学の創立140周年を記念したもので、偶然にも2020年10月に設置されていたため、行った際には碑がピカピカでした。
お墓参りがてら行ってみてはいかがでしょうか?
ジャンル | 歴史 |
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掲載日時 | 2021/3/3 16:00 |
某大学クイズ研究会所属。
私が伝えた知識を吸収し、クイズに役立ててほしいです。
大学では自然科学について勉強しており、歴史好きというのも相まって科学史が得意です。
日本科学史、生物学史、元素といったジャンルの記事を書きます。
元素検定2級を持っています。現在1級取得に向けて勉強中。
加賀という名前ですが、石川県には1度しか行ったことがないです。
写真は福島県に旅行した時撮影した鶴ヶ城です。
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