意外な過去の雑学
【聞くトリビア 読む編part.9】
日本橋三越の屋上にはかつてディズニーランドがあった。
1983年4月15日、千葉県浦安に東京ディズニーランドがオープンしました。
これが日本最初のディズニーランド・・・ではなく、実はその26年前に2ヶ月という期間限定ではありますが、東京・日本橋三越の屋上に日本初のディズニーランドが存在していたのです。
その名も「こどもの夢の国 楽しいディズニーランド」。
ちゃんとアメリカのディズニー社も認めている公式のディズニーランドでした。
屋上の遊園地ということでスペース自体もそれほど広くはなかったのですが、シンデレラ城はもとより、様々なアトラクションも置かれ、多くの子どもたちが楽しんだということです。
プレイステーションは元はソニーと任天堂の共同開発だった。
プレイステーションといえば、ソニーの世界的な人気を誇るゲーム機ですが、元は任天堂との提携でCD-ROM対応のスーパーファミコンとなるはずでした。
しかし、両社は提携を破棄し、ソニーが単独で新型ゲーム機としてプレイステーションを開発・発売することになりました。
2020年3月、この幻の共同開発版プレイステーションの試作機がオークションにかけられ、約3800万円で落札されています。
哀川翔はかつてファッション雑誌『POPTEEN』のライターだった。
男らしいイメージが強い俳優・哀川翔。彼は専門学校在学中に少女向けファッション雑誌『POPTEEN』のライターとして、原宿や渋谷などのお店を取材したりインタビューを行ったり、様々な記事を手掛けていました。
あるとき、路上パフォーマンス集団「劇男一世風靡」の取材をすることになり、その途中で哀川はメンバーに入らないかとスカウトされました。
入団すると街での取材やインタビューがやりやすくなるのではないかと思った哀川はその話に乗ることに。
しかし、その思惑は外れ、ライターの仕事から離れると、「劇男一世風靡」の派生ユニット「一世風靡セピア」のメンバーとしてブレイク。
その後の活躍はみなさん、ご存知の通りです。
ランドセルはもともと兵士が使うカバンだった。
ランドセルはもともとオランダで使われていたかばん「ランセル」を由来とするもので、江戸時代末期に幕府が新しく軍隊を結成した際に、公式のかばんとして兵士に配布したのが日本に広まるきっかけとなりました。
その後、通学カバンとして採用したのが学習院の初等科です。
学習院では教育の場で生徒を平等に接するという観点から馬車や人力車による登校を禁止していました。
その際、通学する子どもたちが楽に教科書などを持ち運べるようにと考えて、背中に背負えるランドセルを導入したそうです。
かつて、マグロのトロは捨てられていた。
マグロのトロといえば高級な寿司ネタの代表ですが、実は戦前まで人気はなく、加工食品に使われたり捨てられたりしていました。
というのも、戦前は冷蔵庫が普及しておおらず、脂の多いトロは非常に腐りやすく、タダ同然の価格で売られていたそうです。
昔の人はほぼタダでトロを食べられたと思うと、非常にうらやましい限りです。
甲子園球場で、スキージャンプの大会が行われたことがある。
昭和13年1月10日、阪神タイガースの本拠地球場としておなじみの甲子園球場で、スキージャンプの大会が開催されました。
新潟県の妙高山麓から列車を使って輸送した雪を使ってジャンプ台を作り、単なるイベントではなく、当時のオリンピック代表などの一流選手を集めたものでした。
普段雪国でないと見ることができない本格的ジャンプ大会とあって、関西の多くの人を喜ばせたそうです。
また、大会開催前後にはこのスキージャンプ台を開放し、一般の人も滑ることができました。
シュレッダー用のハサミは、刻み海苔を作るために作られた。
かつて、ある会社が刃がいくつもついたハサミを刻み海苔を作るための「海苔切りハサミ」として販売しました。
しかし、刻み海苔を作るという限定的な使い方しかできないことから、3万本ほどしか売れなかったそうです。
当時、個人情報の扱い方が問題となっていた頃で、メーカーは考えました。
書類や郵便物を切るためのハサミとして販売すれば売れるのでは。
そこで、そのハサミを「シュレッダー用ハサミ」と名付けて売り出したところ、一気に売上が伸び、100万本以上の大ヒットとなったそうです。
オリンピックでは音楽や絵画を競いあう芸術競技があった。
1912年のストックホルム大会から、オリンピックでは音楽、絵画、文学、彫刻、建築の5部門を競う芸術競技が行われました。
これは当時の国際オリンピック委員会会長であったクーベルタンの提唱により導入されたもので、各国の芸術家による作品がオリンピック開催地に集められ、順位を競い合うというもの。
しかし、採点の基準がわかりにくいなどの理由から1948年のロンドン大会を最後に廃止となってしまいました。
ちなみに1936年のベルリン大会の絵画部門で藤田隆治(ふじた・りゅうじ)、水彩部門で鈴木朱雀(すずき・すじゃく)の2人の日本人が銅メダルを獲得しています。
体重計でおなじみのタニタは、かつてシガレットケースやライターを売っていた。
タニタは、ヘルシーな食事を出す食堂も展開するなど、健康関連商品の会社としてその名が知られてしますが、かつては貴金属や時計、そして健康とは正反対であるシガレットケースやライターなどを発売していました。
タニタが体重計を販売したのは1959年のこと。
1987年に2代目社長が就任した際に、売上のよかった体重計一本でやっていくことを決断し、今に至ります。
ウォルト・ディズニーが新聞社をクビになった理由は「想像力がなく、いいアイデアを持っていない」。
ミッキーマウスを生み出し、アメリカの映画業界に大きな影響を与えたウォルト・ディズニー。
彼はまだ映画の世界に入る前は新聞社で漫画を描いていました。
ところが上司からの「想像力が足りず、アイデアに乏しい」との叱責を受け、なんとクビに。
その後、アニメと出会い、その可能性を感じると、兄とともにアニメ会社を設立。
そこでミッキーマウスやドナルドダックといったキャラクターを生み出し、多くのアニメ映画を制作することとなります。
もし、新聞社の上司がディズニーのここまでの想像力を見抜いていたら、アメリカ映画業界のここまでの発展もなかったのかもしれません。
掲載日時 | 2021/2/5 18:00 |
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