要は勝海舟は何をやった人なの?
勝海舟のイメージって、地球儀をグルグル回してるおじさんのイメージだったりします。
龍馬が勝に会いに行ったシーンが映画やドラマで描かれる時、勝は地球儀を回してることが多いですよね。「龍馬が世界に目を向けた瞬間」を演出するには、地球儀というツールは好都合なのでしょう。
実際に彼は、航海術を学んでます。
ペリーが来航した際、幕府(阿部正弘という幕府の役人さん)は、広く一般に「今後幕府はどういう方針で進むべきか?」という意見を求めました。これに勝は応募します。大半の意見は「外国を討て!」的な単純な意見ばかり。
しかし勝の意見は現実路線です。「日本も海軍を持つべきだ。そうしないと、西洋の連中と渡り合えるようにはならない。」という内容です。幕府は海軍士官を養成するための長崎海軍伝習所を作り、彼はそこの1期生となったのです。
勝といえば咸臨丸の艦長としても有名ですよね。咸臨丸で米国に渡ったのは事実ですが、極度の船酔いに悩み、艦長としての役割は一切果たせませんでした…笑。
でも彼は外の世界を知ったことで、幕臣の中でも変な立ち位置を確立します。龍馬や西郷などの「幕府を倒してやろう!」と思ってる連中とも交流を重ねることになるのです。
勝は神戸海軍操練所という学校を作るのですが、そこに集ったメンツは龍馬などいわゆる「幕府を倒す派」の連中だったりします。幕臣なのにこのニュートラルな立ち位置。これが勝の魅力でもあります。
そして勝がいちばん輝きを放ったのは、いわゆる「江戸城無血開城」といわれる交渉をまとめたことです。
慶応4年1月、鳥羽伏見の戦いが勃発。幕府軍と薩長軍が遂に一戦を交えます。幕府側の大将の将軍・慶喜は逃亡しちゃう有り様。完全に戦いの主導権は薩長が握り、いよいよ江戸の街に近づいてきます。
勝は考えます。「こんなところで内戦をやってる場合じゃない。内戦なんかやってたら、日本も中国みたいに欧米の植民地になっちゃうぞ」と。そこで勝は「江戸城を明け渡すから、戦いはやめよう。それと、慶喜の首は切らないでくれ。」と西郷に提案し、西郷もこれを受け入れたのです。
幕府側も薩長側も、血気盛んな連中が多くいます。「戦いをやめる」というのは、そういう連中の暴発を招く恐れがあります。でも勝と西郷は、そのようなリスクを抱えながらも、戦いを回避したのです。
勝の有名な辞世の句「コレデオシマイ」。
明治政府が樹立されてから、勝は慶喜の名誉回復に努力します。慶喜は錦の御旗を掲げた薩長軍と戦ったから、「朝敵」とされてしまったのです。明治31年になってようやく慶喜は明治天皇との拝謁が許され、これを見届けるかのように、翌年勝は亡くなったのです。
ジャンル | 歴史 |
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掲載日時 | 2020/9/30 16:00 |
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