龍馬に冷たく振られた女性の名前は?
龍馬は人たらしだったとよく言われます。勝海舟や西郷隆盛などの大物も龍馬のファンだったし、女性にもすこぶるモテました。まぁ政治家というものは、そういう性質を持ってないことには絶対に成功しないんだと思います。龍馬は政治家ではないんだけどね。でも幕末期に彼が演じてた役割は、紛れもなく“政治屋”でした。
そんな龍馬ですが、そもそもは土佐の田舎モンです(高知県の人、ゴメンなさい…)。はじめて江戸にやって来たのは、彼が19歳の時。目的は剣術修行です。龍馬は「脱藩」のイメージが強過ぎるので、脱藩してから江戸に来たと思われてたりします。でもそれは間違いで、19歳ではじめて江戸に来た時は、彼は土佐藩から許可を得た上で修行に来ています。。
19歳という青春真っ只中で、江戸という大都会に来てしまった龍馬。それはそれは毎日が楽しい日々だったのでしょうね。修行先は千葉定吉道場です。この道場はめちゃくちゃ有名な道場です。定吉のお兄さんが千葉周作という人で、周作が北辰一刀流という流派の創始者なんです。
ちょっと話が脱線しますが、当時“江戸三大道場”といわれた道場が、斎藤弥九郎の「練兵館」、桃井春蔵の「士学館」、そして千葉周作の「玄武館」です。龍馬が飛び込んだ道場は、そんな名門の道場だったんです。
さてその千葉定吉道場。定吉の息子が重太郎という男で、龍馬よりも10歳以上年上でしたが、仲は良かったようです。後に龍馬が勝海舟の自宅に乗り込む時に、一緒に同行したのが重太郎です。重太郎には妹がいて、それが「さな子」でした。さな子は龍馬の3つ年下です。龍馬は土佐に住むお姉さんの乙女宛てに、こんな手紙を書いてます。「さな子の顔は、加尾より少し良い」と。加尾とは龍馬の初恋の人と言われている女性です。その加尾よりもかわいいと言っているので、さな子はそこそこの美人だったんでしょうね。っていうか、女性を顔で評価する龍馬は、ほんと失礼な男です! 笑
龍馬もさな子も年頃です。恐らく恋に落ちたのでしょう。もしかしたら龍馬が「いつか結婚しよね」みたいな言葉を掛けたのかもしれません。若い時って、簡単に「いつか結婚できたらいいね」的なことを言っちゃうから、龍馬もそんなノリで軽く「結婚」という表現を使ったんだと思われます。でもさな子は本気でした。龍馬と結婚するものだと思い込んでました。
その後の龍馬の活躍ぶりはここでは敢えて書きませんが、彼は“政治屋”に変貌を遂げ、全国を駆け回るようになります。さな子の存在を忘れちゃったとまでは言わないけど、さな子との結婚なんて1mmも想像できない環境に身を置いていました。でもさな子は待ってたんです。龍馬をひたすら待ってました。「私は龍馬の奥さんになる!」という強い意志を持ち続けます。でも結局2人は結ばれることはありませんでした。さな子の晩年は不憫で、東京で鍼灸院を営み、明治29年に永眠しています。もちろん生涯独身を貫きました。
彼女のお墓は甲府にあります。墓石の裏面には「坂本龍馬室」と刻まれてます。「室」とは正室の「室」です。山梨に行く機会があったら、ぜひここに足を運んでいただきたいです。「龍馬の妻は私だ!」という頑なな意志を感じ取っていただけるかと。
ジャンル | 歴史 |
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掲載日時 | 2020/5/28 16:00 |
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